記録が「証拠」みたいで嫌だった
記録を始めた最初のころ、毎日サボった日の記録が怖かった。
「今日は運動できなかった」「また睡眠が6時間以下だった」「体調スコアが低いままだ」——数字が並ぶと、自分のだめさの証拠が積み上がっていくような感覚があった。
だから、調子の悪い日ほど記録したくなくなった。
これは本末転倒だと気づいたのは、しばらく経ってからだ。
「悪い日の記録」こそが価値がある
記録を2ヶ月ほど続けたある日、ふと見返してみた。
体調スコアが「2」や「1」の日が続いた時期があった。そのころ何があったか思い出すと、仕事が繁忙期で睡眠が短かった時期だった。
「あの時期、体にとってきつかったんだな」と思った。
そう思ったとき、記録に対する感覚が変わった気がした。
あの記録は「自分のだめさの証拠」じゃなくて、「あの時期に頑張っていた自分の記録」だった。
記録は「裁く」ためじゃなく「知る」ため
記録の目的は、自分を評価することじゃない。
「この時期はきつかった」「この週は調子よかった」という事実を知ること。
悪い記録があっても、それは「失敗」じゃない。体や気持ちの状態を教えてくれているだけだ。
裁くためのデータにするか、知るためのデータにするかは、記録の中身より自分の見方の問題だと気づいた。
「今日はどうだったか」を正直に書けるようになった
記録を「監視」だと思っていたころは、良い日しか記録したくなかった。
でも「知るため」だと思えるようになってから、「今日は最悪だった」「何もできなかった」も素直に書けるようになった。
むしろ、そういう日の記録が後から一番役に立つ。何がきつかったのか、どう乗り越えたのかが、将来の自分へのヒントになるから。
記録は、自分を責めるためのものじゃない。
自分を知るためのものだ。
そう思えた日から、記録が「味方」になった。
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